表現と表出、ケータイ小説、そして放電へ

2008年03月16日 written by fjkktkys

ロケスタ社長日記:放電コミュニケーションの時代

まだまだ「インターネット=2ちゃんねる」的な時代だった10年ぐらい前に、鴻上尚史さんがなんだったかの著書のあとがきで、「表現と表出は違う」という話から、インターネットにおける表出のあまりにもの多さを指摘していたのを思い出させられた。

おそらく、鴻上さんは表現と表出のことに対してはずっとこだわっているようで、下記のリンク先の書評で表現と表出に関しては理解できると思う。
真実の言葉はいつも短い/鴻上尚史/光文社: 愚か者の代弁者、西へ

で、ロケスタ社長さんが放電ときましたが、まず表出はコミュニケーションではないということ。そして放電はコミュニケーション足りうるのか、とかをぼんやり考える。

表出はカタルシスを求める行動だとすると、放電は癒しを求めるコミュニケーション行為と定義できるように感じる。

デジオ」という、自分ラジオPodcastを一時期物凄い聞いてたことがある。何が面白くて聞いていたかというと、デジオをやってる人同士がPodcastで話していることを通して、時差コミュニケーションをしている雰囲気が異様に面白くて聞いていた。デジオの中の「デジオ英会話」というPodcastで、この方はアメリカ在住の日本人女性だったと記憶しているのですが、この方がデジオについて職場の同僚であるアメリカ人に「それはあなたにとって癒しになるのか?」という質問を受けたということを思い出した。

twitterを始めたちょうど1年前に感じたことは、そのデジオにおける癒しのような感覚だった。コミュニケーションを強要されない場であるということ。表出なのか放電なのか境目はひどく曖昧だと思う。そして気軽にケータイからtwitterにつぶやいて癒しを求めるためにもtmitterを作ったという動機があったのかもしれないってのは、後から気付いたことだったりする。

ケータイ小説の書き手が書く動機は、表出なんじゃないかなと思ってる。表出にこそリアリティがあるのは間違いないだろう。

表出と放電はコミュニケーションを求めるかどうかという点で異なるのかもしれない。ただ成功しているケータイ作家は読者の意見を取り入れているようなので、必ずしも表出のみではないようではある。というか、表出にとどまると限界があるという理解でいいのかもしれない。

放電から始まるコミュニケーションは、なんかいいなあって思ってる。そこにはなんかいい感じのものが存在している。少なくとも強要をしないという前提のいいものが。

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